昨日、ギリシャのことに触れたが、マヤ暦による世界の終焉がないにせよ、世界は混沌としてきている。

たんぽぽ日記より転載
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ギリシャ破滅は世界崩壊の序章
財政破綻の危機に瀕しているギリシャで選挙が行われたが、政権が成立しなかった。内政はさらに混乱の度合いを増すだろう。 このままではギリシャは財政破綻し、失業者や生活困窮者で溢れ、国民が暴徒化して、シリアのように内線状態に陥るかもしれない。 それこそが世界に求められている、原初の混沌化した世界である。 世界が崩壊し、新世界に生まれ変わるにあたり、まず過去のイスラエルの破綻に責任がある国家が破綻すると聖書には書かれている。 古代イスラエルに敵対し、崩壊に導いた国家と言えば、イラク、ギリシャ、エジプト、シリアなどである。 それらの国々が今どうなっているかを見れば、世界の行く末も見えてくる。 聖書の預言、それは未来の予測ではなく、子孫への命令であるということを知らない日本人や世界の人々が、イスラエルとユダヤ人の計画を見過ごしてきた為、今や世界はイスラエルの牧場と化してしまったのである。 救世主が降臨するとき、世界は終わりを迎えるとされている。
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誤解を招くので、「救世主は橋下徹」とアイロニックに書かれていたところは省いたが、確かに世界崩壊のラッパは吹き鳴らされていると思う。そして、たんぽぽさんも書いているように、その根幹は呪詛であるだろう。
この間、輿石が「W選挙は来年の夏がいい」といったが、これは彼の考えではないだろうと思う。もっと上のほうからの発信命令があったのではなかろうか。ユーロ圏の崩壊、アメリカの崩壊、そして日本と続くのならば、年内に決着する世界の行く末を見て、日本の結論は出るのだろう。世界の三極は、こうして壊滅的になり、新世界が登場というシナリオだ。しかし、そううまくいくだろうか。その流れを差し止める潮流もあるようだ。今年の夏にはそのことが公になるだろう。
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ヤスの備忘録より
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すでに知っている読者も多いと思うが、最近最古のマヤカレンダーが発見されたというニュースが報道された。コルマン博士の論文は、この発見の解釈に異を唱えるものである。この新発見がどういう内容なのか、サンケイの記事をそのまま掲載する。

「マヤ暦「2012年滅亡」なかった 最古のカレンダー発見、米チーム精査

中米グアテマラにある9世紀初期のマヤ文明遺跡の壁画に、月や惑星の周期を計算したマヤ最古のカレンダーがあるのを米ボストン大学などの研究チームが発見した。欧米などではマヤの暦(こよみ)に基づき、今年、世界が滅びるとする「2012年人類滅亡説」がまことしやかに流布しているが、精査したところ、終末を示すような計算結果は見当たらなかったという。成果は11日付の米科学誌「サイエンス」に発表された。(SANKEI EXPRESS)

優れた天文学の知識

研究チームは2010〜11年、グアテマラ北部の遺跡を調査。寺院の住居部分とみられる小部屋の内壁や天井に、青やオレンジ色の衣装で着飾った王族の姿や、黒や赤色の点と円、棒線を組み合わせた数百個の象形文字が描かれていた。

マヤ文明は優れた天文学の知識があったことが知られており、解読したところ、文字は数字を表しており日食、月食の時期や月の満ち欠けなどを示していた。このほか金星や火星について、太陽、地球と一直線に並ぶ現象が起きるタイミングを計算した結果もあった。ただ月食や日食についての計算は、不正確なところもあったという。

これまで見つかっていたマヤの暦は、樹皮の紙に書かれた13〜14世紀のものだった。その中で歴史は繰り返すという概念が描かれ、ある起点日(紀元前3114年とみられる)から13バクトゥン(187万2000日)経った段階で「時間の区切り」を迎えると記されていた。バクトゥンとはマヤ文明の長期暦での年月の単位で、約394年に相当する。13はマヤ文明で最も神聖な数字とされている。

7000年は先がある

21世紀に入ると、1999年に騒がれた「ノストラダムスの大予言」がはずれたことの埋め合わせのように、マヤ文明でいうところの「時間の区切り」とは人類の滅亡を想定しているとする説がオカルト雑誌や予言関連書で喧伝され、起点から13バクトゥン経った2012年12月21日から12月23日頃に人類は滅亡するとした終末論が広まっていった。09年には、この問題をテーマにしたハリウッド映画「2012」も公開されている。

今回、マヤ最古のカレンダーを精査した研究チームは「終末論を裏付けるような計算結果の記述はなかった。逆に、世界には7000年は先があると考えていたようだ」としている。
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なんだ、滅亡しないのか。書き始めてもいない「未来中年カナン」の構想は、ジリ貧になってきたのである。物語は、2013年5月20日の始まるのだが、世界の潮流が変ってきている。これまでの予測は、単純には行かないだろう。7000年もあるのか。もう死んでるじゃないか!ん〜。普通の小説を書いて、世に出そう。
にしても、五日後の日食と6月6日には何かが起こるのではないかと思っているのだ。なにせカナンのおっさんの誕生日がその日というのが設定の基本だったからだ。んっ?だからもうやめるのにね。にしてもギリシャどうするんだろう?もう少し、見ておかなければわからない。17日から忙しくなるのに、ギリシャ15日で決着しなかった。「2012年の黙示録」というブログも最近更新していない。自信なくなってきたのかな?
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文春の5月号にあった「日本の自殺」が面白かったのでメモしておく。

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「結局、20年以上惰性で車輪は回り続けてきたと思う。日本の生産年齢人口のピークアウトは1995年。アメリカが2007年、ヨーロッパが2010年。奇しくも、それぞれのピークアウトが、バブル崩壊、リーマンショック、欧州危機と前後するのは不思議だが社会保障費を受ける人口との逆転が先進国の中では日本は最も早い。だから、無策であれば財政が膨らむのは当然である。日本は2012年〜2015年までの3年間、団塊の世代が65歳を向かえその総数はおよそ600万人」
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というのが基本的な前提で、近未来予想図に様なものを小説っぽく描いている。
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2012年6月には、国債と円の暴落

2014年7月・東京
「3年前、イタリア国債の暴落で、イタリアの商店やレストランは次々とつぶれた。跡地を買いあさったのが大挙してやってきた中国人だった。ローマ・ミラノに限らず、、、、

全農のビルが焼き討ち
<農民の反乱・農民VS全農>
大都市圏の食糧難=レタス・トマトが1個900円>
2年前に事実上のデフォルトにあって野田内閣は総辞職、出直し選挙で自民・民主の財政再建画連立を組む「大阪維新の会」連合内閣。橋下が首相について小泉純一郎を財務大臣にするウルトラCをもって「新・船中八策」を発表、消費税30%、公務員50%カット、年金40%カット。そして年金カットで”年金自殺”が起こり、それに端を発して、大掛かりなデモが起こり、年金とは関係のない全農が焼き討ちにあう。
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文春がなぜにこのような巻頭特集を掲載したのか、そこには意味がある。上のメモは面白そうなところだけのメモだが、そうやって恐ろしいシナリオを際立たせ、恐怖を煽っているのだ。
原発停止で電力不足、計画停電をするくらいなら、原発再稼動してもいいですよね?という脅しと一緒なのである。
脅しで思い出したのがつい最近の記事で、「2012年人類滅亡説は嘘だった」というのが世界的に新聞掲載された。これは、第三次世界大戦が延期された、と僕は読んでいる。ホルムズ海峡の閉鎖もないのだろう。世界の裏でこれまでにない、状況が作り出されているといううわさは耳にするが、玉石混交で、ブログにのせるような結論や方向性は見出せない。ひとつだけ思っているのはキリスト教の嘘は、本当に許せない、ということぐらいだろうか。どうやら2013年はちゃんとやって来る。滅亡しないのなら、目の前のことに対して、つまり生きていくということに対して戦っていくしかないだろう。思い出すのはガンダムでアムロがシャアとの激戦で叫ぶ台詞だ
「まだだ、たかがメインカメラが壊れただけじゃないか」。スピリチュアルなところで生きることを捕らえている人は何も考えていないのかもしれないとも思う。そして僕は今日も般若心経を早口で唱える。カラスの鳴き声を数えながら今日1日の予感を捉えようとしている。
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[喪失]

 作家が私生活において幸福である例はそう多くない。作家が自分を愛するものを幸福にする例はさらに多くない。創造的鋭意は個人主義と分かちがたく、したがってまたエゴイズムとも分かちがたいものだ。しばしば詩人は、自分と妻との間に起こることよりも、自分と詩神との間に起こることのほうが、はるかに重要であると感じている。全身全霊で創造に没頭するためには、彼は皇帝のように孤独に生きなければならないのだ。
 よき文学者がよき家庭人になることが出来ず、よき家庭人がよき文学者になることが出来ないもうひとつの理由は、満ち足りた生活という土壌には、力強い作品が育たないということだ。より良い作品がかかれるのは、作者が成功し、崇拝され、心やさしく、親切にされ満ち足りているときではない。むしろ不幸で、愛されず、苛立ち、追われ、飢えているときなのである。 
 尋常な人にとっては破滅的でさえある孤独というものを、文学者は容易に耐え忍ぶことが出来る、それは文学者の自然な状態である、想像に取り付かれたものにとって、近しい人間は、本質的にあまり必要ではない。彼らとの関係によって妨げられ、もっと大事なことから引き離されるからだ。
 ただし、こうした職業的個性をすべて備えているからといって、運命が人に課すさまざまな試練の中で最も恐ろしい者のひとつーーー愛するものを失うことに対して、文学者が免疫を持っているということにはならない。何しろ喪失の痛みは、人間が人生から去ることを決意する上で最も根本的な理由のひとつであるからだ。このことは先史時代からそうだったし、今もまたーーーいかなる社会体制の下でも、たとえ社会がどんなに高いレベルの発展を遂げようともーーー決して変わらないだろう。
 典型的な文学者は、確かに個人的な関係においてエゴイスティックなものだが、しかしこのことが喪失の痛みから彼を救うことはない。文学者は自分自身の経験に関心を集中するという特性を持っており、近しい者たちの感情に対して冷酷になるのはこのためである。だがその一方、同じ特性のせいで彼は、何か些細なショックをも、宇宙規模の悲劇と受け止めるようになってしまうーーーまして正真正銘の悲劇が起きた場合については言うまでもない。
 悲しみを克服して生きていく能力の喪失ーーーこれは、フロイトの言葉に置き換えるなら、トラウマ的状況への情動固着である。「それまでの人生のすべての土台を揺るがすような、トラウマ的出来事によって停止させられたその結果、人は現在と未来に対する関心を失い、心の中では過去のままにとどまるようになる・・・・」とフロイトは「ノイローゼ総論」の中で主張している。この場合、喪失は、埋め合わせの利かない、以後の存在が一切の意味を失うようなものになるということになるだろう。フロイトによれば、喪失による恒久的な痛みとは「そこから自由になることも、それを適切に処理することも出来ない結果、エネルギーの消費に長期的な障害を及ぼすほどの強い苛立ち」に他ならない。これにもう一言付け加えるなら、あまりにも長期にわたって喪失感に苦しんできた人間は、これ以上一切の「エネルギーの消費」を望まなくなり、その結果、死を選ぶようになるのである。
 人気社会小説、および最も人気を博した推理小説を書いてフランス警察小説の系譜を開いたシャルル・バルバラ(1817−1866)は、二重の喪失を耐え忍ばねばならなかった。妻も息子も失ったのだ。入院して鬱病の治療を受けたが、それもむなしく、作家は病院の窓から身を投げた。
 愛する人を失って生きる苦しみが何年も続くこともありえるが、しかしそのような長期の自殺の延期は、唯特殊な事情の場合のみ起こる。日本の作家・詩人原民喜(1905−1951)は、「もし妻と死に別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい詩集を書き残すために・・・」と考えていた。彼の妻が亡くなったのは1944年のことで、その後、原は広島市で暮らしていた。われとわが身に延期を課したその1年がほとんど過ぎようとしていたある日、街に原爆が投下され、その巨大な悲しみの光景は、ひととき個人的なドラマを追い払ってしまった。作家は、起こったことを世界に語るのを自分の責務と考え、そのために6年の歳月を費やした。原は、この社会的な責任を果たした後になって初めて、自身の命を処理する権利を取り戻したと考え、それにピリオドを打った。彼の場合、歳月もまた、喪失の痛みを和らげることはなかった。

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更新がなかなかはかどらない。
5月になったのに、大して春らしい気分にならないのは何故だろうか。それとも5月病の準備に入っているのだろうか。知り合いの”うつ病”の人が「5月かぁ」とため息をついていた。はかどらない先の予定に、彼は電話をしてくるたびに、大きなため息をつく。去年まで数年、まじめに勤めていたのだが、あまりの長時間労働と待遇の悪さに切れてしまって、社長をしかり倒してやめたのだが、勤める前に自営していた業界は、長引く不況で見る影もなく、今ではそのころ彼の下請けをしていた会社から、おこぼれのような仕事を引き受けている。7、8年前だったか、彼の自慢のベンツに乗って男4人で長距離ドライブしたのが今では夢のような出来事になってしまった。
彼はため息をつくために僕に電話をしてくるようだ。連休明けには久しぶりに会っては見るのだが、仕事という点ではあまりいい話は出来ないだろう。こちらまでため息が出てくる。
 先行きで思い出したが、陰謀論で知られるカナダ人が、「日本に期待していたのに、日本人はもうだめだ。飼いならされすぎて、何も動こうとしない」とあきらめたようだ。日本国籍までとって思い入れてきた日本に対しての、これもため息なのかもしれない。
さてついでのようだがニュースに以下の記事が出ていた。
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 内閣府は1日、自殺対策に関する意識調査の結果を発表した。
これによると、自殺を考えた経験がある人は全体で23・4%となり、2008年2月の前回調査より4・3ポイント増えた。年代別では20歳代の28・4%が最も多く、特に20歳代女性は33・6%と、前回調査(21・8%)から大幅に増えている。調査は今年1月、全国の20歳以上の男女3000人を対象に実施し、有効回収率は67・2%だった。
年代別では、40歳代の27・3%、50歳代の25・7%、30歳代の25・0%と続いた。すべての年代で女性が男性を上回っている。
また、自殺を考えたことがある人のうち、「最近1年以内」に考えたと答えた人も、20歳代の36・2%が最多だった。20歳代女性に限定すると44・4%に上った。
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20代の人が、4割自殺を考える国柄というのは、いったいなんだろうか。僕は、経済的側面だけではないだろうし、4割などという、内閣府が発表した数字よりももっと酷い実態があるのではないかと思う。ここには10代の調査結果は出ていないが、極端なことを言えば国民の半分以上は、生きているのか死んでいるのかわからない意識で、人生の時間を流れているのではなかろうか。
 思い出したのは映画のことだ。正確なタイトルを失念してしまった。「わだ○の森」。知的障害者の施設だったかの話だが、そこへ僧侶が講話をしにきた。主人公の一人が、僧侶に「生きているのだか、よくわからないんだ」とたずねる。すると僧侶はこう答えた「生きるというのには大事な点が二つあるんです」「ひとつは、ご飯を食べるということ。あなた、ご飯をちゃんと食べますか?おかずもおいしいですか?」と彼に問う。質問をした彼はうなずく。
僧侶はにこやかに「ああ、それは良かった」と言って続けた。「そしてもうひとつは」といいながらもう一人の主人公の介護の女性に彼の手を触ってやってくれという。そして「もうひとつの大事なことは、実感するということです」。と解説した。
それはそういうことなのかもしれない。映画ではその壮年の主人公と介護の女性がまぐわうのだが、かなりな賞をとったこの映画は、僕は大嫌いだ。確かに実感するために生きているというのは坊主らしい物言いだが、これを信じて、何らかの形、(たとえば他人に声をかけるとかだが)で人に触れてみたら、たいていの場合おお火傷を負うことのほうが可能性としては高い。自傷行為を実感とした「蛇にピアス」という芥川作品もあったが父親に書いてもらった原稿で恥ずかしげもなく賞をとった若い女の子は、いまだに作家としてこの世で生きている。それは彼女の実感なのだろうか。そんなところで結論を言うならば結局は「色即是空」なのである。
ふと思い出した。フランスの古い詩の一行「人生は決して僕を欺かなかった」。スルメを噛みしめるように反芻すれば 、奥深い意味合いが出てくる。「僕は人生を欺いたのか」という対極との反復に、生きるとは何かという”空間”が生まれる。そこへ行き着くと話は尽きない。
自殺を考えたことがある、というのは「死にたい」ではないのである。「生きていたくない」という結論のひとつだ。特に20代の「生きるホルモン」に満ちているはずの若者は、その生の満ち欠けが激しい。
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